無属性魔法の召喚に関する一通りの説明を終えて、カイトと一緒に馬車へ乗り込んだエルヴァは気楽な口調のまま次の予定を口にした。「帰る前に、ちょっと寄り道するよ」「寄り道? ですか?」「うん、寄り道。テーラーで採寸しちゃおう。軍服のね。魔道士には必需だからさ。今頃、店主が慌てて準備してるんじゃないかな」 軍服と聞いたカイトはあらためてエルヴァの服装に目をやった。 エルヴァは燕尾服やタキシードといった礼装の原形となった黒のフロックコートを着ていた。 カイトの視線に気付いたエルヴァは微笑みを微笑む。「僕は軍服が嫌いなんでコートで外出することが多いけど、通例としては魔道士が人前に出るときには軍服を着るってことになってる。僕は例外。そもそも筆頭魔道士団の顧問ってのが例外的だからね」「そうなんですね……軍服、ですか……」「きみも軍服が嫌いだったりする?」「いえ、好きとか嫌い以前に、軍服なんて着たことがないので」「そっか。まあ、すぐに慣れるさ。きみが着てる服は、きみがいた世界で一般的なもの?」 エルヴァに服装のことを訊かれて、カイトは自分が全身ユニシロというファストファッションコーデであることを思い出した。「そうですね。ごく一般的な服装です」「簡素で動きやすそうだけど、これからきみが立つことになる場所だと、ちょっと簡素すぎるかもね。ちょうどいいから紳士服店にも寄って既製服も見繕おうか。下着なんかも用意しなくちゃだし」「はい。お願いします」 エルヴァの指摘はもっともだと感じたカイトは素直にうなずいた。 自分の服装はどうにもこの世界、特に接する人物たちが王侯貴族という社会では浮いていると感じていたカイトにとっては、渡りに船な展開でもあった。 カイトとエルヴァを乗せた馬車は、王都プログレの目抜き通りに面するテーラーの前で停まった。 王室御用達の看板を掲げた二階建てのテーラーだった。 高級感が漂う店内の空気にかすかな緊張を覚えるカイトとは対照的に、エルヴァはくつろいだ様子だった。 カイトの採寸は店主が自ら行った。職人ならではの店主の見事な手さばきに接したカイトが感心しているうちに採寸は済んでいた。 テーラーを出たカイトとエルヴァが次に訪れた同じ目抜き通り沿いに店を構える紳士服店も、王室御用達の看板を掲げていた。 紳士服店に先回りしたエルヴァの
「ありがとうございます……エルヴァ卿の弟子として恥ずかしくない魔道士になれるよう、頑張ります」 カイトは決意を口にしながら「定型文っぽい返事になってしまった」と思ったが、エルヴァはにんまりと笑みを浮かべてカイトの言葉を受け取った。「うん。素直でよろしい。僕の提案には素直に応じると決めるまでの判断の早さも合格だ。で、もう一つ提案なんだけどね。きみの今晩からの寝所なんだけど、当面は僕の屋敷にしない? 魔法もそうだけど魔道士って立場が特殊だから、把握しておかないと問題になっちゃう慣習とか作法が色々とあってね。特に戦場に立ったとき国家の意向を背負う全権代理人として扱われる筆頭魔道士団に所属する魔道士は、ウァティカヌス法って魔道士に関する国際法も把握しとかなきゃいけない。とまあ、きみに教えとくことってけっこう多いからさ。近くにいれば何かと無駄がなくていいかなって思うんだけど、どうかな?」 エルヴァは自分の屋敷にカイトを招く提案に至った理由をすらすらと説明した。 拒否する理由がないと即断したカイトはすぐに首肯して応じた。「はい。お言葉に甘えて、お世話になります」「よし、決まりだね。これからきみの叙任式典までは忙しくなるよ。まあ、重要な立場に立つことがもう決まってるきみに早い段階で取り入りたいとか考える貴族やら政治家なんかは、僕と一緒にいれば近付けないから安心して屋敷でくつろぐといい」「はい。ありがとうございます。そうさせてもらいます」 素直にうなずくカイトの反応を見て、満足の表情を浮かべたエルヴァは、「じゃあ、帰ろう」 と馬車の発進を秘書に合図した。 カイトとエルヴァを乗せた馬車は、十五分ほどで王宮と目抜き通りのほぼ中間に位置するエルヴァの屋敷の車寄せに入った。 バトラーとハウスキーパー、そして三人のメイドが、主人であるエルヴァと客人のカイトを出迎えた。 使用人を管理するバトラーは落ち着いた笑顔を浮かべる壮年だった。ハウスキーパーはやわらかな笑顔を浮かべる中年の女性。メイドは三人とも若い女性だった。「僕は使用人が多いのは苦手でね。あとはコックが二人いて、それで全員かな」「あ、はい……」 カイトが微かに戸惑った反応をみせたので、エルヴァは軽く問い掛けた。「どうかした?」「いえ……俺がいた世界、というか国、っていうか時代だと使用人の方と接する機
エルヴァの屋敷はカイトの想像をはるかに超えて広かった。 カイトにあてがわれた部屋も二十畳ほどの寝室としては広いもので、白を基調とした明るい部屋には先ほど紳士服店で買った部屋着や下着などの荷物がすでに運び込まれていた。 夕食までの自由な時間を得たカイトは、窓際に小振りなティーテーブルを挟むように置かれた椅子に腰掛けると「他にすることもないし」と気楽な動機で禁書を開いた。 カイトにとって禁書に目を通す行為は、召喚魔法の知識を得るためというよりも娯楽小説をめくる感覚に近かった。 窓から射し込む光が柔らかい暖色に変化したことで、日が落ちるんだと気付いたカイトは部屋に備え付けられたランプを灯した。 蛍光灯やLEDといった電気照明以外に触れることがほとんど無かったカイトにとっては、新鮮でありながらも仄暗い夜が始まった。 携帯式のランタンで足下を照らしながらカイトの部屋を訪れたメイドが夕食を報せるまで、カイトは目が慣れてしまえば文字を追うことにストレスのないランプの灯りを頼りに禁書を読み進めた。 メイドの案内に従いカイトが食堂に入ると、十人が席についても余裕がありそうなテーブルの両端には四台の大きな燭台が置かれ、合わせると二十本のろうそくが灯っていた。 随分とムードのある食卓だとカイトは思いながら席に着いた。 カイトに少し遅れて食堂に入ったエルヴァは、目抜き通りでのショッピングを終えて屋敷へ戻った際に出迎えた三人のメイドとは別のメイドを連れていた。 エルヴァは席に着くと、カイトにとっては初対面となるメイドの紹介を始めた。「まずカイト君に紹介しておこう。きみに付いて身の回りの世話を担当するメイドのストーリア。今日からこの屋敷へ入ることになった新人君だ。きみと同い年の二十歳らしいから気兼ねもいらないんじゃないかな」 エルヴァに紹介されたストーリアは、カイトに向かって深々と頭を下げてから自分の名前を口にした。「ストーリア・カストリオタと申します。これより身の回りのことは何なりとお申し付けください」 小柄なストーリアは白い肌を引き立てる赤褐色の髪をショートボブにしていた。 ベルエポックとも呼ばれる華やかな時代背景を反映するように、この異世界に来てからカイトが目にした女性はヘアメイクが際立つ長い髪の女性がほとんどだった。 顎のラインに沿うようなショートボ
「はい。わたくしでよろしければ」 夜伽を務める意思を示す小柄なストーリアに上目遣いで見つめられたカイトは、対応を間違えちゃいけない場面だと判断できたことで落ち着きを取り戻した。 間近で見るストーリアのきめの細かい白い肌にうっすらと浮かぶそばかすの愛らしさに気付いたカイトは、男の庇護欲をかき立てるタイプの女性だと思った。 「魅力的な申し出だけど、今は必要ないかな」「わたくしでは閣下のお眼鏡にかないませんでしたか……」 ストーリアが目を伏せるのを見て、言葉が足りなかったと思ったカイトはすぐさま補足するように答えた。「いやっ、そういう意味じゃない。きみはとってもかわいいし、本当に魅力的な女性だと思う。ただ、今の俺には夜伽とか考えられないし、受け止める余裕もないってだけなんだ」 カイトの言葉から配慮を感じ取ったストーリアは微笑みを浮かべることで応じた。「お心遣いに感謝いたします」 同い年のストーリアがみせる落ち着いた対応に接して浮かんだ疑問を、カイトは率直に訊いてみようと思った。「あの、一つ訊いてもいいかな?」「はい。なんなりと」 ストーリアがすぐさまコクリとうなずくのを見て、カイトは少し踏み込んだ質問を切り出すことにした。「きみは良家の出身じゃない? 立ち振る舞いがしなやかというか、気品があるというか、短期間の訓練で身に着けたものじゃない感じがするんだけど……」 カイトの質問に対して、ストーリアは一呼吸置いてから答えた。「……わたくしは、御三家と呼ばれミズガルズ王国で最大の勢力を誇るとも云われるファリーナ家の、分家の一つにあたるカストリオタ家の出自でございます」 ストーリアの返答が想定内だったことで、カイトはもう一段踏み込んだ質問を口にした。「有力な貴族に繋がる良家の血筋で、若くて美しいきみがメイドとして俺の担当になってすぐに夜伽を申し出たのは……そういった背後の意向を背負ってるせいってことなのかな」「閣下は聡明であられます……左様です。今のわたくしはファリーナ家の命を受けて、ここにおります」「そうか……分かったよ、答えてくれてありがとう。俺から王配の祖父に相談するなりすれば、その命令を解除できるかもしれないけど……」 カイトが考えを巡らせながら答えると、それまで一貫して落ち着いていたストーリアが微かに慌てた様子をみせた。「閣
テルスと呼称される異世界にカイトが召喚された聖暦一八八九年九月十一日から、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオはその対応に追われた。 セルシオは女王の諮問機関である枢密院の議長を務めるマジェスタと連絡を密にしながら、カイトへのサイオン公爵位の叙爵を略式として断行することで異例の早さで済ませた。 マルチタスクで政治的な処理を片付けてしまう豪腕をもって宰相まで上り詰めたセルシオは、カイトの魔道士への叙任及びミズガルズ王国の筆頭魔道士団であるトワゾンドール魔道士団への入団の手続きも自らが主導して断行した。 トワゾンドール魔道士団への入団に際しては、顧問として迎えている太聖エルヴァの意見を尊重し、ダイキの不在により空位となっていた首席魔道士へのカイトの就任を決定した。 カイトの魔道士としての叙任式典を、朔日である十月一日に執り行うことも併せて決定した。 辣腕をふるうセルシオが激務をこなしてみせるのとは対照的にエルヴァの屋敷に滞在するカイトは、日に数時間程度のエルヴァから受けるレクチャー以外の時間は既に一通り読み終えている禁書を読み返すなどして、勉強に専念するという大学生だったカイトには違和感のない形で異世界での生活をスタートさせた。 禁書に記された十五種の天使に関する情報をすっかり頭に叩き込んだカイトは、通常のランク付けとは別枠として扱われるミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの四大セラフと、サタン、バアル・ゼブル、ベリアル、ペイモンの四大ノフェル。そしてランクには属すが上位の存在として扱われるセラフとケルブの次に位置するスローンまでの五種を、九月十五日までに召喚させてみせた。 十五日の昼過ぎに訪れたサイオン領の飛び地でありカイトが召喚された日にも召喚魔法のレクチャーに用いた草地で、カイトがスローンの召喚を成功させるのを目にしたエルヴァは歓声を上げた。「いやいやいや……! 僕の弟子は本当にやってくれるね! ほんの数日でジズやバハムートなんかの四大幻獣に匹敵するスローンを召喚しちゃったよ」 カイトの意欲にほだされて普段は必ず休むと決めている日曜日にも関わらず、レクチャーに付き合ったエルヴァは心の底から愉快だと表すように両手を叩き合わせて感嘆した。 優に五メートルを超える体長を誇るスローンの白銀に輝く威容を目の当たりにしたカイトも、自分が異世界で確実
カイトは軍服が届いた翌日の火曜日、九月十七日から魔法や魔道士としての基本的な作法などをエルヴァから教わることに並行して、王宮病院で実際に治癒魔法を行使して患者の治療にあたっているケンゾーとともに、実際に治癒魔法による治療を経験しながら治癒魔法を習得することにした。 カイトから治癒魔法も早めに習得しておきたいという意向を聞いたエルヴァは「それはいいね」と二つ返事で了承した。 ケンゾーもカイトの申し出を喜んで快諾した。 叙任式典の前であることを考慮して、カイトは軍服ではなくフロックコートを着て王宮病院へ通うことにした。 王宮病院の医師や看護師といった関係者とその患者には、カイトに関する箝口令が敷かれた。 実際に治癒魔法を行使する治療に先立って、ケンゾーは王宮病院内にある書斎でカイトに治癒魔法についての説明を始めた。「治癒魔法は軽傷を治療するクラティオ、重傷を治療するクラティダ、致命傷すら治療できるクラティガの三つに分類してるけど、それは治療に必要となった魔力量の差でしかない。裂傷や骨折といった負傷箇所をトレースして完治するまでのイメージを浮かべ、魔力によって完治のイメージを患部へ伝えるという一連の流れは同じなんだよ」 意外に単純な分類だと感じたカイトは、それを隠さず口にした。「それぞれ別の魔法ってわけじゃないんですね……その魔力ってどれぐらい使うものなんですか?」「四属性魔法や無属性魔法で用いられる魔力の数値化に合わせるなら、一から三の魔力消費で済む時はクラティオ、四から七で済むのがクラティダ、八以上の消費を要する場合をクラティガと呼んでる。それぞれの呼び方を発声する詠唱は、意識を集中するための呼称でしかないんだ。致命傷では使う魔力が十二ぐらいに達する場合もあるね」「使った魔力は他の属性魔法と同じように、自然に回復するんですか?」「うん。仮に魔力を使い切ったとしても、約一日でほぼ戻るよ。魔力が自然回復する早さも魔道士によって差があるけどね」「魔力を回復するアイテムなんかは、この世界にはないんですよね?」 カイトの質問を聞いたケンゾーが驚きを示すように目を丸くしてみせる。「それは面白い発想だね。残念だけど、そんな便利なアイテムがあるって話は聞いたことがない。あれば便利なんだけどなあ……」「そうなると……戦場で治癒魔法を使う場合は、慎重に使
ケンゾーが治癒魔法による治療の拠点としている王宮内の病院に、カイトが通うようになってから一週間が経過した九月二十四日の昼過ぎ。 工事現場での事故によって重傷を負った患者の治療を、カイトが一人で滞りなく済ませる姿を見届けたケンゾーは、ふうと一息つく様子を見せるカイトに声をかけた。「少し、休憩しようか」 ケンゾーとカイトは連れ立ってケンゾーの書斎に入った。 カイトが王宮病院に訪れた際にはくっついて回るマヤの姿もあった。 治癒魔法の習得に励み、次々と患者を治療するカイトにマヤはすっかり懐いていた。 カイトが治療している間は邪魔にならないよう距離を置いて見ているマヤは、治療に区切りを付けてカイトが休憩する素振りを見せると駆け寄って、ぴったりとそばを離れようとはしなかった。「ダイキも早かったけど、カイトはそれ以上に慣れるのが早いね」「ありがとうございます。でも、おじいさんの教え方が分かりやすいおかげだと思います。体系がシンプルに立っていて理解しやすいですから」「まあ、他の属性とは違って治癒魔法は用途がそもそもシンプルだからね。俺はナーガから下賜されたものをなぞっているだけと言ったほうが近いよ」「下賜ってことは直接、治癒魔法の内容をドラゴンから聞いたってことですか?」「うーん、直接的、とでも言おうか……夢を介していたからね」「夢、ですか?」 カイトがオウム返しに「夢」を強調して訊くと、ケンゾーはゆったりとうなずいてみせた。「そうなんだ。俺がテルスに来てすぐ、三日が過ぎた夜の夢にナーガが現れた。白昼夢に似たその夢の中で、俺はナーガから治癒魔法についての一通りを教えられたんだ」「直に、現実で会ったことは無いんですか?」「ないよ。他の大陸にいるドラゴンに関しては定かじゃないけど、ミズガルズ王国でナーガに直接会ってるのはセルリアンだけだね。カイトは会ってみたいのかい? ナーガに直接」 ケンゾーの問い掛けに対して、思案する表情を浮かべたカイトは一呼吸置いてから答えた。「会って聞いてみたいことはあります。でも、今はまず目の前のこと、治癒魔法と無属性魔法の習得を優先します」「賢明な判断だな。本当に俺の孫としては出来過ぎだ」 ケンゾーが満足そうに微笑むと、静かに二人の会話に入るタイミングを探っていたマヤが、白い陶器のコップに注いだ水をカイトに差し出し
聖暦一八八九年十月一日。 カイトが正式に魔道士として叙任するための「宣誓の儀式」が執り行われるレザレクション大聖堂の周囲には、晴天に恵まれたこともあり朝早くから多くの人々が詰めかけていた。 続々ときらびやかに装飾された二頭立ての四輪馬車が、レザレクション大聖堂の正面に広がる大きな広場の奥に位置する車寄せへと乗り入れた。 ミズガルズ王国の筆頭魔道士団であるトワゾンドール魔道士団に属する魔道士たちが、豪奢な馬車から降り立つ度に群衆から歓声が上がった。「レビン卿とステラ卿のお二人だ!」「いやあ、拝見する度に美しさが増しておられるねえ……」 レビンとステラが馬車から降りると、男性たちの視線は瑞々しい魅力を放つ二人の女性魔道士へと吸い寄せられた。 百七十二センチと女性としては長身であるレビンの、意志の強さを表わすように輝く黒い瞳が群衆に向けられると男たちがざわめき立った。 濡れ羽色のストレートで長い髪が、すらりと伸びた手足を包む純白の軍服と相まって端整な美しさを放つレビンの姿は、十八歳にして魔道士の威厳すら併せ持っていた。 レビンの横に立つステラも百六十五センチと女性としては高めの身長で、亜麻色の髪をショートボブにしている。 理知的な印象を与える銀縁の眼鏡の奥の瞳は琥珀色で、落ち着いた微笑を浮かべてみせる二十歳だった。 軍服を着ていても男たちの目を引く大きく張り出した胸のふくらみと見事なヒップラインが、肉感的な魅力でもって男を魅了していることもステラは自覚していた。 レビンとステラは余裕の笑みを浮かべながら、群衆の歓声に応じて軽く挙げた手を振りながら大聖堂へと入っていった。「あっ! アルテッツァ卿とセリカ卿のお出ましよ!」「ああ、もう……なんて見目麗しいの……」 アルテッツァとセリカが馬車から降りると、打って変わって女性たちの注目が眉目秀麗を絵に描いたような二人の男性魔道士に集まった。 艶めく金髪に翠玉の如き碧眼、鼻梁がすらっと通った欠点の見当たらない美丈夫である二十四歳のアルテッツァと、光沢を含んだ微かに淡い金髪に力強い眼光を放つ碧眼を有する二十二歳のセリカが並んで歩く姿は、女性たちの熱い視線を強く惹き付けた。 百八十七センチのアルテッツァと百九十センチのセリカが身に纏うと、トワゾンドール魔道士団の威光を示す純白の軍服は秋の澄んだ空気の
マイラントへ通ずる街道から市街地へと入る境に関所のように設置された番所から、アクーラの声に驚き慌てている様を露骨に素振りで表す四人の男が飛び出した。 他の三人が揃いの作業着にも見える制服を着ている中で、唯一ビタリ王国の一般の軍隊に所属する下士官へ支給される軍服を着た男は急ぐ様子を見せながらも、番所に繋がれている馬に跨がり街へと入っていった。 数分後、馬を駆る二人の魔道士が番所に到着した。 馬から降りたトリアイナ魔道士団の軍服を纏う二人の男性魔道士の、深紅の地に銀糸で刺繍された三叉槍のエンブレムの下に標された数字は、ⅡとⅨ。「おっ……やっと、お出ましですかあ」 筆頭魔道士団の席次を持つ執行の対象が到着したことを、目視で確認したアクーラがにやりと余裕の笑みを浮かべる。 次席を示すⅡのナンバリングを背負うの男は、アクーラへ向かって真っ直ぐに歩を進めながら口を開いた。「トリアイナ魔道士団のゾンダ・ファンジオである! ブリタンニアが何用か!」 ゾンダは覇気に満ちる四十五歳で、後ろに結わえた長い赤髪が歴戦の自負に彩りを添えていた。「卿らを率いたウアイラ卿の王位簒奪を、聖皇陛下は断罪なされた! 我らの首席魔道士たるヴァルキュリャ卿が聖皇陛下の意思を代行する刑の執行人として指名された!」 アクーラが自分に向かって躊躇なく足を進めるゾンダを見据えながら口上を述べる。 口上を聞いたゾンダは表情を動かすことなく、アクーラの手前五メートルほどの位置でピタリと立ち止まった。 第九席次の男もゾンダに付き従うように後ろで立ち止まる。「そうか……私の相手は、最強の魔道士団となったか……」 微かに眉根を寄せて事態の把握を伝えるように静かな口調で応じたゾンダに対し、アクーラが問い掛ける。「降伏なされるか?」 ゾンダへ向けたアクーラの問いに答えたのは、第九席次の男だった。「降伏などするわけないだろ!」 若い血気を抑える様子もなく感情のままに言葉とした第九席次の男を、ゾンダはすぐさまたしなめた。「控えよ、カリフ卿」「ですがゾンダ卿……!」「控えよ」 カリフはアクーラに対する敵意を剥き出しにしながらも、ゾンダの言葉に従って口をつぐんだ。 アクーラに対してわずかに頭を下げたゾンダが、返答する落ち着いたバリトンの声に悔恨の音を含ませる。「筆頭魔道士団に席を置く
フエルシナへ赴いたインテンサの一行が圧倒的な力量差をもって、聖皇の意思を代行する刑の執行人としての任を完遂した頃、ヴァルキュリャの一行も目的地であるマイラントに到着しようとしていた。 ビタリ王国で第四の都市であるマイラント。 天然の良港を持つマイラントは、海路と陸路を繋ぐ交通の要衝として古くから発展してきた街だった。 ガリア共和国に近いこともあり多様な芸術を育んできた街としても知られるマイラントの、手前一キロメートルほどの地点で二輛の幌馬車が停まった。 真っ先に馬車から降りたのは、刑の執行人として聖皇から指名を受けた首席魔道士ヴァルキュリャだった。 続いて同じ馬車から、長い金髪を三つ編みにした小柄な女性が静かに降りる。 小柄な女性はヴァルキュリャと同じ漆黒の地に山吹色で縁取りがなされたメーソンリー魔道士団の軍服を着ていた。同色のマントには山吹色の糸で刺繍されたメーソンリー魔道士団のシンボルであるコンパスのエンブレム。そのコンパスの下にはⅥの数字が標されている。「大丈夫? エリーゼ卿」 心配を隠さず顔に出したヴァルキュリャが、筆頭魔道士団としては異例の二十六名からなる「世界で最大にして最強の魔道士団」と称されるメーソンリー魔道士団で第六席次を担うエリーゼに声をかける。「大丈夫です。メーソンリーの魔道士が乗り物に弱いなんて情けないですよね」「そんなことないよ。なんだかゴメンね」「どうしてヴァルキュリャ卿が謝るんですか」 エリーゼはくすりと笑ってみせた。 セナート帝国が最大の大陸を掌握する覇権国家となった今も、陸よりも遙かに広い海洋を押さえる覇権国家として在り続けるブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団として、席次の決定にも政治が絡んでくるメーソンリー魔道士団の首席魔道士となったヴァルキュリャ。 十七歳の若さで首席魔道士となったヴァルキュリャの「できるだけ近い席次に就いて欲しい」という希望を聞き入れ、本来であれば望んでいない政治的な策謀が渦巻く席次争いに身を投じ、魔教士としては最高位となる第六席次に就いたエリーゼはヴァルキュリャにとって大切な存在だった。「いやさあ……こんな任務に付き合わせちゃってるから、ね」「そう、任務です。だから謝らないでください」 やわらかく微笑むエリーゼに対して「……うん。そうだね」とヴァルキュリャはうなずきながら
インテンサの指令を遂行したクワトロが、速攻でボーラを処理した現場へと駆け付けたイオタは亡き骸となったボーラを見るや怒りを露わにした。「あいつらか……!」 犬歯を剥き出しにして怒りを沸騰させるイオタが、五百メートルほど離れた街道に仁王立ちするアイギス魔道士団の四人を睨み付ける。「へ、へい……そうです。やつらが、ボーラ様を……」 ボーラとクワトロの戦闘を目撃した番人が、止まない恐怖で震える声のままイオタに答えた。 イオタは臨界に達した怒りを爆発させた。「いい女を殺す奴に生きてる価値はねえ! 皆殺しだっ! ムスペル!!」 イオタはその場で怒号とともに召喚獣の名を詠唱した。 直径十メートルほどの巨大な紅く光る魔法陣が、イオタの咆哮じみた召喚に応じて前方に現れる。 魔法陣から体高十五メートルにも及ぶ巨人ムスペルが現出する。 赤黒い肌を露にした裸体のムスペルは、はち切れんばかりに筋肉を隆起させていた。 ムスペルの全身は自ら発する炎で覆われている。 正しく「炎の巨人」そのものであるムスペルの威容を前にした番人は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。 ムスペルを見据えたインテンサは、感情を起伏させることなく一歩前に足を進めた。「聖皇国の情報は確かだったようだ。あの風体でムスペルを召喚できるならイオタで間違いないだろう。冥土へのせめてもの手向けに、格の違いというものを最期に見せてやるとしよう……ミドガルズオルム!」 インテンサが土の属性に於いて最上位とされる召喚竜の名を詠唱する。 直径二十メートルほどの巨大な緑色に発光する魔法陣が、インテンサの詠唱に呼応して浮かび上がる。 魔法陣から二百メートルを優に超える体長を有する大蛇が、その威容を現出させる。 灰褐色の鎧の如き鱗に覆われたミドガルズオルムは、ムスペルを見下すように鎌首をもたげた。 あまりに巨大な異形の召喚竜を目にしてしまった番人は、自分が失禁していることにさえ気付けずただ放心した。「ちっ……!」 ミドガルズオルムを召喚する魔道士が相手と知ったイオタは、舌打ちとともに思考を取り戻した。 各々の属性で最上位とされる召喚竜であるテュポーエウスやヴリトラと並び称されるミドガルズオルムを実際に目の当たりにするのは、筆頭魔道士団でエースナンバーを背負うイオタにとっても初めてのことだった。「くそ
番所から深紅の軍服を着た女性が出てくるのを目視で確認したインテンサは、感情を乗せない静かな口調でクワトロに声をかけた。「聖皇国の情報は確かなようだ。ボーラで間違いないだろう。イオタが到着する前に済ませるとしよう。この戦闘は聖下の下された断罪を代行する刑の執行であり、戦場の儀礼は無視して構わん。卿の得意とする速攻で片付けてしまって何ら問題は無い」 インテンサの指示に「御意」とだけ短く応えたクワトロは、続く呼吸で魔法の詠唱を済ませた。「クッレレ・ウェンティー!」 速さで優位に立つのが定石である気の属性魔法を行使するクワトロが、風の力を利用して加速する初手の定番であるクッレレ・ウェンティーを用いて高速で駆け出す。 前傾で駆けた姿勢のままクワトロは召喚魔法を行使した。「ウムダブルチュ!」 クワトロが召喚獣の名を詠唱する。二つの魔法を同時に行使するという高等技術を難無く行ってみせるクワトロに呼応するように、ライオンの体に鷲の頭と翼を持った召喚獣が、金色に輝く魔法陣から現出する。 体長が四メートルに達するウムダブルチュは、堂々たる巨躯を誇示するように咆哮を上げた。「いいねえ、強引な男は嫌いじゃないよ」 不敵な笑みを浮かべたボーラは、その場で召喚魔法を行使した。「ラクタパクシャ!」 ボーラが詠唱した召喚獣の名に呼応して現れた紅く光る魔法陣から、人間の胴体に鷲の頭と翼を持つ召喚獣が現れる。その体長は二メートルほどだが、羽ばたく翼の翼長は四メートルにも届かんとする大きさを誇った。 全身から炎を発するラクタパクシャが、紅蓮の翼を強く羽ばたかせる。 ラクタパクシャの羽ばたきは数十本の炎の矢を空中に作り出した。 流れるような動作で、ラクタパクシャが紅蓮の翼を力強く前へと突き出す。 数十本の炎の矢が、一斉にウムダブルチュへと襲いかかる。 ウムダブルチュは素速く上空に舞い、炎の矢を全て躱してみせた。 上空から高速で急降下したウムダブルチュが、ラクタパクシャに体当たりを喰らわす。 その圧倒的な質量差によってラクタパクシャは吹き飛ばされた。「くそっ」 ボーラがウムダブルチュに向けて両手を突き出し、援護射撃となる魔法を詠唱しようとした、その刹那。眼前には既にクワトロの姿があった。「グラディウス・ウェンティー!」 クワトロの素速い詠唱と同時に長剣の如き
「それでは、各々任務を完遂した後に合流するということで。私はこれで失礼を」 英魔範士である自分よりも上位の称号を持つ世界で三人しか存在しない内の一人だとしても、圧倒的な最強として君臨する太聖エルヴァや覇権国家を築くに至った皇帝シーマとは違い、現時点では何らの功績を挙げた訳でもない未知数のカイトと、最も警戒すべき存在として認識している自分以外の英魔範士であるヴァルキュリャ。 この二人と馴れ合う必要はなく、下手に関係を築くことは避けるべきだと判断しているインテンサは、静かに退席の意思を口にしてから立ち上がると真っ先に円卓を離れて退室した。「では、俺も……」 インテンサにつられて立ち上がったカイトに、ヴァルキュリャが声をかけた。「カイト卿。卿は今回が初めての実戦ですよね」「あ、はい。そうです」「卿は無属性魔法を行使する太魔範士にして聖魔道士、圧倒的な強者です。ですが、初陣には魔物が潜んでいます。命を奪うという行為に躊躇すれば魔物は容赦なく襲いかかってきます。覚悟は今のうちに固めておいてください」 命を奪う。ヴァルキュリャが明言した強い言葉に、表情を引き締めたカイトは首肯を返した。「分かりました。そうします」 カイトの素直な返答を聞いたヴァルキュリャは表情を緩め、穏やかな笑みを浮かべてみせた。 セナート帝国が勢力を拡大する中で徹底的な実力主義をもって猛者を集結させたラブリュス魔道士団が存在する今も、最強の魔道士団と称され続けるメーソンリー魔道士団の首席魔道士が浮かべる可憐な笑みに接したカイトは赤面した。 「それにしても、思ったより早い再会でしたね。この任務が終わったら、また二人でお酒でも」「はい、ぜひ」 ヴァルキュリャの誘いに対し、カイトは嬉しさを隠さずに二つ返事で応じた。 翌日の朝にはインテンサが率いるアイギス魔道士団の四名と、ヴァルキュリャが率いるメーソンリー魔道士団の四名が聖皇国の用意した幌馬車に乗り込み、それぞれの目的地へ向けて出立した。 さらに日付を跨ぎ月の変わった二月一日の朝には、最も目的地に近いカイトらトワゾンドール魔道士団の四名も、聖皇国が用意した二台の幌馬車に分乗してメディオラヌムへ向けて出立した。 同日の昼前。 数千年の歴史を刻む古都であり観光地として知られる、ビタリ王国で第三の都市であるフエルシナの空は今にも雨を
カイトが筆頭魔道士団に属する魔道士三名とともにウァティカヌス聖皇国に到着したことで、聖皇フィデスが指名した三名の執行人が揃ったことを受け、翌日の昼過ぎには最初の協議が持たれた。 聖皇の宮殿内で行われた協議には各国の首席魔道士であるヴァルキュリャとインテンサ、そしてカイトが参加し、ウァティカヌス聖皇国の筆頭魔道士団・ロザリオ魔道士団で次席を務めるクーリアが、司会を兼ねたオブザーバーとして協議を進行した。 現状の確認から入るクーリアの穏やかだが通る声で、三カ国を代表する首席魔道士が顔を合わせる協議は始まった。「まずビタリ王国の現況からですが……首席魔道士であったウアイラが率いるトリアイナ魔道士団は、十二月三十一日に王都ロームルスでクーデターを起こし、国王とともにソフィア王女殿下を除く王族を殺害。その翌々日にはウアイラが国王に即位したことを国内外に宣言。王位の簒奪に際し、ウアイラに抵抗する姿勢をみせたビタリ国内の貴族は少なく、現在までに南部の一部を除くビタリ王国の領土はほぼトリアイナ魔道士団が掌握する形となっています」 クーリアの現状の説明を受けて、ヴァルキュリャとインテンサは現在の状況をすでに把握していると判断したカイトは最初の質問を口にした。「トリアイナ魔道士団に属する魔道士たちの配置はどうなっていますか?」 カイトに向けて首肯を返したクーリアが答える。「ゲルマニア帝国との国境に近いフエルシナには第三席次のイオタと第十一席次のボーラ。ガリア共和国との国境に近いマイラントには次席のゾンダと第九席次のカリフ。そして、聖皇国に近いメディオラヌムに第五席次のジュリエッタと第七席次のデルタ。ウアイラを始めとする他の魔道士は王都ロームルスに留まっているようです」 地中海に突き出た半島が領土の大半を占める、地球のイタリアに酷似したビタリ王国の地図をカイトは思い浮かべた。 大陸側の国境をゲルマニア帝国、ガリア共和国、ロムニア王国の三国と接しており、ウァティカヌス聖皇国を内包する領土を持つビタリ王国にあって、周辺の各国への警戒を顕示するなら妥当な配置なんだろうとカイトは思った。 ロムニア王国には魔教士以上の魔道士が不在な上に、停戦協定が結ばれたとはいえセナート帝国への警戒を解けない現状では、ビタリ王国に対して何かしらの行動を起こす余裕はないものとして協議には上が
翌日の昼前。肌を冷やす淋しさをいっとき忘れさせてくれるような心地好い日差しがそそぐプログレの港には、聖皇からの指名を受けて刑の執行人として出立しようとするカイトたちの姿があった。 聖皇の使者としてミズガルズ王国を訪れたヴェネーノは、カイトたちより先に汽船への乗船を済ませていた。 ビタリ王国の王位を簒奪したウアイラと、クーデターの主体となったトリアイナ魔道士団への断罪を裁定した聖皇の意思を代行する執行人という特異な任務に当たる渡航とあって、カイトら四人の出立を見送るのはレビンとステラ、そしてノンノの三人のみだった。 少数とはいえ筆頭魔道士団の威を示す純白の軍服を身に纏う魔道士たちの存在は充分に目立っており、七人を遠巻きにする港で働く人々の注目を集めていた。「さくっと終わらせて還ってくるんだよ」 ノンノがいつもの調子で声をかけると、カイトは調子を合わせるように軽い調子で応じた。「うん。そうするよ」「ピリカをお願いね」 ノンノが浮かべる快活な笑みに、わずかな心配の色が差すのを見たカイトは大きくうなずいてみせた。「分かった。必ず無事に、一緒に還ってくるから」「うん。任せた」 カイトに向けて明るい笑顔をみせるノンノの横で、真剣な表情を崩さないレビンにアルテッツァが声をかけた。「王都を頼むよ」「お任せください。旅の無事とご武運を祈っております」「ああ、武勲を立てて王都に戻るとしよう」「はい。凱旋の日を楽しみにしております」 微笑を浮かべて壮行を口にするレビンへ向けて、アルテッツァは力強い首肯を返した。 カイトに随行するアルテッツァ、セリカ、ピリカの三人と、ヴェネーノを乗せた汽船は予定通りに正午の鐘を合図に出航した。 汽船は最短の航路でウァティカヌス聖皇国を目指し、十一日後の一月二十九日には聖皇国のスペツィア港へと到着する予定となっていた。 カイトにとっては初陣の地となるであろうビタリ王国へと続く旅立ちだったが、その不安や緊張を顔には出さないように努めた。 天候にも恵まれ穏やかな船旅となった十一日の間、四人はヴェネーノも交えてポーカーに興ずるなどして時間を潰す余裕を持った空気を共有した。 一月二十九日の昼過ぎには、予定の航程を全うした汽船がウァティカヌス聖皇国のスペツィア港に入港した。 ふたたび聖皇国の地を踏むこととなったカイトに、
ビタリ王国の首席魔道士ウアイラによる王位の簒奪を受け、これを断罪する裁定を下した聖皇フィデスの署名が入った正式な刑の執行人への指名を受理。刑の執行に当たっての渡航に同行する三名の人選と、渡航の方法と日程の決定。 重大な決断と実務の処理を矢継ぎ早に行ったカイトは、深夜の帰宅から短い眠りを経て翌日も朝から王宮に赴き、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオとの事前の確認に併せて事後の方針に関する協議も済ませた。 「さすがにちょっとオーバーワークかな……」 思わずぼそっとつぶやいたカイトが屋敷へ帰る頃には、大陸からの厳しい寒気をなだめていた冬の陽もすでに傾き始めていた。 カイトが自室に戻ると、ストーリアが旅の支度を調えていた。 どの程度の滞在になるか期間のはっきりしない渡航の準備とあって、その荷物はなかなかの量にはなっている。「ただいま」 カイトが声をかけると、ストーリアは荷造りの手を止めて微笑みを返した。「おかえりなさいませ。お疲れでしょう。出立までは少しお考えにならない時間をお持ちください」 ストーリアが自然に言い添えた「考えない時間」という言葉にカイトは感心してしまった。 この異世界に来てから約四ヶ月。首席魔道士という国防を担う元帥、あるいは象徴的存在としての大元帥とも謂えてしまう立場に就いてからの約三ヶ月。未だに慣れない政治的な判断や決断を強いられてきたカイトが、いま最も欲しているのは思考から解放される時間だった。 いまの自分を一番よく分かってくれているのは、異世界にいきなり召喚された最初の長い一日からずっとそばにいてくれるストーリアなんだろうとカイトはあらためて思った。「カイト様……? どうかなさいましたか?」 少し感慨にひたる間を置いたカイトに、ストーリアが小首を傾げてみせる。「あ、いや。ストーリアはいつでも、俺が欲しい言葉をくれるなって思っただけだよ」 カイトの返答を聞いたストーリアは、荷造りのためにかがんでいた姿勢から立ち上がるとカイトをまっすぐに見つめた。「カイト様……ひとつだけ、約束していただけませんか?」「俺にできる約束なら……」 ストーリアがゆっくりとカイトのそばに寄り、その胸に自身の頭を寄せる。 カイトの心音を確認するように短い間を置いたストーリアは、頬を寄せるカイトにだけ届く声でお願いを伝えた。「必ず
翌日の昼過ぎに、聖皇の指名を受けたカイトが執行人としての渡航に同行するメンバーを探していると聞き及んだピリカが、王宮内にあるカイトの執務室を訪れた。 書類仕事を中断して応対したカイトに促されてソファに腰掛けたピリカは、向かいに座ったカイトをまっすぐに見つめて用件を口にした。「カイト卿。今回の指名を受けて、執行人として赴く卿と同行する魔道士に、あたしを加えてください。この機会をあたしは待っていたんです」 前置きを省いて本題から入ったピリカに対し、カイトはまずその動機を確認するための質問を返した。「危険を伴う任務に立候補していただき、ありがとうございます。ピリカ卿、ひとつだけ訊いてもいいでしょうか? 危険な任務の機会を「待っていた」という理由は何ですか?」「あたしは魔道士としてトワゾンドール魔道士団に席をいただき、ミズガルズ王国の男爵位もいただきました。ですが、侯爵領となったヌプリの先住民族をルーツとする出自は、決して変わるものではありません。あたしの親や親族に向けられる視線を変えるために、あたしは活躍して功をあげなくてはならない。それが理由です」 ピリカの碧い瞳に強い決意が宿っているのを感じ取ったカイトは、首肯を返してから答えた。「分かりました。今回の渡航への同行をピリカ卿にお願いします」「ありがとうございます」「いえ、礼を言うのは俺のほうです。おかげで初めての任務を受ける俺にとって最大の不安材料がなくなりました」 そう言って頭を下げるカイトを見たピリカが微笑む。「カイト卿。あたしも、ひとつ訊いてもいいですか?」「ええ、どうぞ」「親しい関係になった女性は、もういますか?」「えっ!?」 ピリカの唐突な問いに動揺したカイトの声が裏返る。同時にカイトの脳裏にはストーリアの顔が浮かんだ。「あたしでよろしければ、そちらにも立候補してよろしいですか?」「えー……と、とても魅力的な提案なんですが……」「答えは急ぎませんので、いまは立候補だけ受け取ってください。気長に待ってます」 ピリカの微笑みには裏に含んだ後ろめたさがなく、魅力的な女性だとカイトは率直に思った。 その日のうちに、カイトは聖皇の使者であるヴェネーノが滞在するホテルに赴いた。 ヴェネーノが宿泊する客室に直接通されたカイトは、すすめられるままソファに腰掛けると用件から口にした